2007年06月04日
金武町の民話と伝説
日秀上人
(にっしゅうしょうにん) 金武町の観音堂も日秀上人が開いたんですよね
| 一、上人フナヤに漂流:日秀上人 | |
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永正(えいしょう年間(1504から1520)、和歌山から唐に行く途中の一隻の舟が、金武のフナヤ(富花港)に流れついた。
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当時のフナヤは、山原舟(やんばるせん)が停泊しては薪を積む港だったといわれ、フナヤの手前はヤマクモー(営林署のある近辺)といって薪の積み出しの準備をする所だったそうだ。
ちょうど舟が流れついた頃、ヤマクモーに仕事をしに来ていた並里の若者がいた。
若者の目には、流れついた舟が大きな箱のように見え、もしかすると宝物でも流れてきたのではと、喜び勇んで近づいてみた。
しかし、近くでよく見ると人気(ひとけ)のない舟だった。
ほとんど半壊(はんかい)状態の舟、その帆柱は根こそぎに折れてなくなり、へさき(舟首)はもぎとられ、舟の面影はなくなっていた。
若者が乗り込んでよく調べてみると、舟の中央部あたりに、上から板をかぶせた細長い箇所があった。板を取り払ってみると、かろうじて生きているかのようなお坊さんが、舟底にしがみつき、うつぶせになって倒れていた。
「これはいかん。すぐにも手当てせねば」
と若者は持っていた弁当をあたため、オカユを作って差しあげた。
オカユをすすっているうちに、坊さんの体力は回復したようで、立ち上がって海を見渡した。そして、笑みをいっぱい浮かべて大きな声をはりあげた。
「ほこらしやみなと!」
しばらくたつと、坊さんはよほど、のどがかわいていたとみえ、若者に頼みこんだ。
「このあたりに、飲み水はないかな」
若者は村はずれの小高い丘のふもとにある、湧き水の出る場所に案内した。
潮風にだいぶさらされた後の喉の渇きだったせいか、坊さんは新鮮な冷たい水を一口入れただけで、身震いをした。
「うーん…、なんとおいしい水だろう。この水でお茶をわかして飲むと、きっとすばらしい味がするだろうよ」
と若者に教えた。
すっかり落ち着きを取りもどした坊さんは、それまでのいきさつを若者に話した。
若者はこの坊さんが、日秀上人という身分の高い僧であることをはじめて知り、急にこちこちになり、へりくだった態度をとった。
「そんなにかたぐるしくならんでもよい。それに、あなたは私の命の恩人だ。何かお礼をせねば。私にできることがあれば、何でも申し述べよ」
上人の言葉に、若者は
「私は何もほしくございません。あたりまえのことをしたまでです……。あえて申しあげますと、物をもらってもいつかはなくなります。それで…、姓をたまわりたいのですが」
「ほっほう、姓がほしいとな……。して、どんな姓が」
と若者に尋ねると、若者は北の方角を指差しながら
「この丘のずっと向こうの山のふもとに、川がございます。その川は、私たちの先祖代々はじめ、多くの村人の生活に、たいへん役に立ってきた由緒(ゆいしょ)ある川でございます。名はヒジャガーと言います。その川の名を授けてもらえば、たいへん光栄に思うのですが」
と願い出た。
「それはたやすいことだ」
と上人は言って、この名が幸せをもたらすように唱えあげた。
「さあ、今日からおまえの名字は比嘉だ。この名に誇りをもって使うがよい」
と若者に命名した。
それから後、姓をもらった若者の屋号はヒジャとなり、また、現在でも比嘉姓を名のり栄えているという。
この話が村中に伝わっていくうちに、日秀上人の申された「ふくらしゃみなと」の言葉から、その浜のあたりは福花と呼ばれ、また、湧き水の出る所を茶井(サーガ)と呼ぶようになった。
茶井は後々、おいしい水所として首里までその名が届き、役人が金武に立ち寄るときは、必ずといっていいほど、ここの水を飲んでいったという。


